赤鬼の由来

井伊の赤備え とは
 天正10年(1582年)の後北条氏との講和によって、武田氏の旧臣達約120人と家康の旗本の一部が配属されたことから始まる。この時、直政は兜や鎧を始めとする戦で使用する全ての装備品を赤色で統一させた。これはかつて武田の赤備えの将であった山県昌景の意志を継ぐという意味もあったが、その他に赤色だと目立ちやすく、戦の最中にどこに自分の部下達がいるのかが一目で分かるという意味もあった。初陣の小牧・長久手の戦いでは大いに活躍し、徳川・織田連合軍の約10倍近くの兵を有していた羽柴軍の総大将である羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)やその配下の武将達もこの井伊の赤備えには大変手こずったという。この頃から井伊の赤備えは、「戦国屈指の精鋭部隊」または、「徳川家臣団最強の部隊」と見なされ、諸大名に恐れられるようになる。以後、井伊氏の軍装は幕末まで赤備えを基本とされた。
 直政は家臣に非常に厳しく、少しでも戦で失敗をした者がいれば容赦せず処罰し、一軍の将となっても自ら先陣に立って戦うことを好むなど激烈な性格で、短所も多かった。そのため、戦の際に陣に留まって指揮を執ることはほとんどなく、筆頭家老である木俣守勝がその役目を果たしたという。「井伊の赤鬼」と称され、諸大名から恐れられた。


井伊直政 井伊直政

【名言】捨てて苦しかるまじき敵と見ば、敵にてはあるまじと申すべし

【列伝】徳川家家臣。徳川四天王・十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の功臣とされる。武田家山県勢の旧臣達を配属したことによって始まる井伊の赤備えは戦国屈指の精鋭部隊として有名である。直政公は勇猛なだけでなく、政治家・外交官としても卓抜した手腕があり、最終的には四天王最高の禄高を得ている。しかし、家臣に非常に厳しく些細な失敗でも処罰を下し、斬りつける事も多かったため、「人斬り兵部」の異名を奉られた。

 井伊氏第24代当主。上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国佐和山藩の藩主。さらにその後に近江国彦根藩の初代藩主。



徳川氏の家臣(家臣になった当時は外様)。徳川四天王の一人。自身が組織した井伊の赤備えは戦国屈指の精鋭部隊として特に有名である。徳川氏きっての政治家・外交官としても名高い。遠江国井伊谷の出身で若手の武将でありながら、柳営秘鑑では榊原氏や鳥居氏と並び、三河岡崎御普代として記載されている(譜代の最古参は、安城譜代)。また、江戸時代に譜代大名の筆頭として、江戸幕府を支えた井伊氏の手本となった人物であり、現在の群馬県高崎市と滋賀県彦根市の発展の基礎を築いた人物でもある。





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  • 最終更新:2010-11-10 11:45:21

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